阿修羅の如く
阿修羅の如く。とは、よく言ったものだ。
真実を知らなけば、人間は、阿修羅の如く生きるしかないのだろう。
人間関係のアレやこれや、相手のせいにしたくなるが。
全て、自分の考えのなかの記憶を見ているに過ぎないのに。
相手には、そうせざるを得ない背景かある。
自分の考えや感情の動きにも、そうせざるを得ない背景がある。
だから、もちろん自分の事も、相手の事も責めなくて良い。
変えれる事と
変えれない事の識別
「私」とは、何なのかの識別
身体は、時の中で移り変わる。考えも移り変わる。その移り変わる考えを見ている視点。それこそが、真実の私。
私は、それを知りながら、上手に役者を演じる。今、目の前で起こっている出来事に、巻き込まれない役者であり、プロデューサーであり。。その視点を保つ。
リアリティは、この身体の私や考えの私が、巻き込まれている世界にはない。
行いには、相応の結果が必ず戻る。
だからこそ、私の自由意志は、神を選ぶ。
私の中から、神をあらしめ、今、すべき事にフォーカスしていく。
私は、丁寧に行いを選ぶ。
そう。。。祈りを選ぶ。
大海原でゴールも知らず、四方八方、どこにでも向かえる自由という名の不自由さの中で。ただただ、周りとの駆け引きに神経を使い、奪われぬ様に、少しでも奪う事が出来る様にと、画策を練り続ける人では、もはや、ない。
私に、更なる識別が起こります様に🙏
私と関わる人に、Graceがあります様に🙏
私達は、皆、愛そのものなのだから。
何も恐れる必要はないと、祈りが届きます様に。