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あーでなければいけない、こーでなければいけない。これは手放せない。あれを手に入れなきゃ。
自己受容のない私は、常に「あれを得て幸せ。これを得て幸せ。あれを失ったら不幸せ。これを、手に入れなきゃ不幸せ。」そう考えて生きてきた。
人への批判も渦巻いていた。でも、それは、私自身の中にあるものとの共鳴だと知った。あるから共鳴する。つまり、私を、私自身を見ているのだ。そしてそれは、相手をコントロールしようとするエネルギーに変換される。何故なら、自分には、受け入れられなくて苦しいから、相手を変えるしかないから。
でも、知った。私達は、限りない転生の中で、限りない困難を乗り越える為に、生き抜く為に、それら数々を身につけてしまったのだと。もし、あなたが、仮に、許せない彼や彼女の生を生きていたなら、あなたもそうならざるを得なかったのだと。そう、つまり、相手を変える事など不可能だということ。そして、それは、私自身にもあてはまる。自分自身だって変わらない。それは、この宇宙の法則の中で成し遂げられている事。りんごが木から落ちるのと同じ・・・法則なのだ。
でも、それこそが、人の苦しみである、それが問題なのだ。変えられない自分、手放せない自分。変わらない相手。執着ゆえに、必死で手にいれようとする毎日。
その苦しみの解決の為のたった一つ可能性があるとしたら・・「自分が何者であるか」を知り、それを理解する事。腑に落とす事。識別していく事。そして、知りきる事。
そのしくみを知り、私が何者であるかを学び、腑に落としていく中で、「すべき事としたい事」が一致していく。価値構造が整っていく。その中で、今まで執着していたものへの手放しが始まる。大切だったものが、いかに馬鹿げたものであったを知り始める。
りかちゃん人形はもう要らない・・・
執着とは、つまり過去の自分。自己尊厳など持った事などない自分が、その穴を埋める為に、追い求めて、追い求めて、追い求めて、時にはすべきでない事までして、それらを手に入れようとした。そうするしかなかった過去の自分。
人は、皆、その法則の中にいる。
だから、そんな自分を否定などする必要ない。そして、誰からも否定される事でもない。法則には、何の問題もないのだから。
でも、「自分が何者であるかを知らない。」それが原因で、その人間の根源の苦しみがあるとしたら・・・「知る」事でしか解決しない。もはや、何者にもならなくていいのだ。「知る」だけが解決なのだから。
全ての違和感は、「私が私としているもの」と「真実の私」とのギャップだけ。
だから、学ぶ、理解する、識別する。
この五感と考えという道具では明かせない「この宇宙についての真実、私についての真実」。
もう一つの道具を付け足さねば得る事ができないその真実。そのもう一つの道具とは。「聖典と、その聖典を伝統の中で、正しく身に付けてハンドリングできる先生」。
その道具に明け渡し、真実を理解しながら、腑に落としながら、知り、そして知りきっていく。
それだけが真の意味での私の仕事であり、その為に営めるだけの財力、学べるだけの健康と体力が必要なのだ。その途上にいる事に感謝と祈りを持って、生きていけたら、それが全て。
「今」
プラサーダ🎁
与えられたものは、全てプラサーダ
つまり、お供物。。神からのプレゼント🎁
この世界で、唯一自意識を持つ人間は、動物とは違い、行いを選ぶ自由意志を授けられている。行いは、その人の成熟に沿い、より、宇宙の秩序を選ぶ方向にシフトしていく。
けれども、手に入れる結果は、法則の中で返される。
それは、この五感に届く世界の法則。りんごが🍎木から落ちる重力の法則だったり。地球が🌏自転しながら太陽の周りを廻る天体の法則だったり。
それと同様の、カーテンの向こうの五感の届かない世界の法則から、プレゼント🎁は、もたらされる。
私の成し遂げたものなど、何一つない。
だから、成功しても、舞い上がらない。何故なら、それは、もたらされたものだから。
たとえ、失敗しても。。。
階段のてっぺんにいる赤ちゃんが、階段の途中にあるおもちゃに手を伸ばせば、ママは、慌てて、落ちない様に、赤ちゃんを抱き上げる。
失敗は、これと同じ。そちらの道は、あなたの道じゃないよ、という道標。つまり、ショックアブソーバーでもある。
この顕れた世界の自然や人々の関係性、それらは、全て、縦糸、横糸に編み上げられ、全てのものが、無数の過去の行いの結果を体験する様に、ここに在る。
私の生まれた家も、周りの環境も、家族も、全て、最高の組み合わせで、過去の行いの結果を体験できる世界としてここに在る。
全ての体験は、私の行いを元に紡がれている。
プラサーダ.ブッディ
お供物は、有り難くいただく。これが、正当なスタンス。
真実の視点から見れば、全ては、プラサーダ🎁
手にするものは、全て、私にとってベストなもの。
それを、理解して、プラサーダ🎁を受け取る。
阿修羅の如く
阿修羅の如く。とは、よく言ったものだ。
真実を知らなけば、人間は、阿修羅の如く生きるしかないのだろう。
人間関係のアレやこれや、相手のせいにしたくなるが。
全て、自分の考えのなかの記憶を見ているに過ぎないのに。
相手には、そうせざるを得ない背景かある。
自分の考えや感情の動きにも、そうせざるを得ない背景がある。
だから、もちろん自分の事も、相手の事も責めなくて良い。
変えれる事と
変えれない事の識別
「私」とは、何なのかの識別
身体は、時の中で移り変わる。考えも移り変わる。その移り変わる考えを見ている視点。それこそが、真実の私。
私は、それを知りながら、上手に役者を演じる。今、目の前で起こっている出来事に、巻き込まれない役者であり、プロデューサーであり。。その視点を保つ。
リアリティは、この身体の私や考えの私が、巻き込まれている世界にはない。
行いには、相応の結果が必ず戻る。
だからこそ、私の自由意志は、神を選ぶ。
私の中から、神をあらしめ、今、すべき事にフォーカスしていく。
私は、丁寧に行いを選ぶ。
そう。。。祈りを選ぶ。
大海原でゴールも知らず、四方八方、どこにでも向かえる自由という名の不自由さの中で。ただただ、周りとの駆け引きに神経を使い、奪われぬ様に、少しでも奪う事が出来る様にと、画策を練り続ける人では、もはや、ない。
私に、更なる識別が起こります様に🙏
私と関わる人に、Graceがあります様に🙏
私達は、皆、愛そのものなのだから。
何も恐れる必要はないと、祈りが届きます様に。
言霊
言霊
1回目のワクチンを打った。
アナフィラキシーを3回も経験しているので…躊躇していたが。
60歳を過ぎているし、持病もあるし…
そして…こんな時代に生きて、こんなpandemicを経験しているのも、何かの縁だろうか…と。最後は、流れの中に身を委ねた。
賛否はあろうが。私は、それを選んだ。
その帰りに。
接種会場の自転車の整理をされている方から
「気をつけて、お帰り下さ〜い」
と声をかけられた。
思わず、振り向いた…
え!?私じゃなくそちらこそ。。。
この、炎天下で自転車の整理。
熱中症は他人事じゃない。
でも、その時、ハッと気付いた。
言葉の中にある言霊。
その何気ない言葉の中にこそ、祈りがあるのだと…
確かに… 子供がまだ幼かったころ。
「気をつけてね。行ってらっしゃい‼️」
その言葉の中に、強い祈りを込めて、毎日、見送っていた。「ただいま〜」と言う元気な声に、毎日、祈りの価値を見ていた気がする。
いつ頃からか
言葉は形骸化し、それは単純なやり取りになっていたかもしれない。
でも
言葉を発する、私の中に、祈りがなくても。言葉そのものに、強い祈りがある事を、今日、何か、思い知らされた気がした。
瞬間に、私の中の祈りが。。。汲み上がった。
「私よりも、あなたの方こそ、気をつけて下さい🙏」と…
強い祈りをこめて
「おじさんこそ、暑いんだから
気をつけてね〜」
忘れていた、何か、大切な事を思い出した気がした。
そう。
この宇宙は、 言葉と共に生まれた
それは
イーシュワラのサッティヤサンカルパと共に
つまり 神の意思と共に
そこから、質を伴いこの世界に現れた私達は
それは、全て個である私達の自由意志に任せられ。。。
個人のエゴを通して、私を表現するので、神の意思からは離れていくが。。。それですら、それは、神の法則か中にある。
「ことば」は、神と共に顕れた。
そう、「ことば」について、学んだ時 何気なく見落としていた事。 「祈り」の大切さとは そもそも「ことば」の大切さ それと同義だった。 その事をはっきりと自覚した瞬間だった。
7月の満月 グルプールニマ
7月の満月は…
私達、ヴェーダーンタを学ぶ生徒にとっては、特別な日。
この深淵な知識体を、間違いなく、今のこの時代にまで残してくれた先生方に、感謝を捧げる日。 🌸グルプールニマ🌸
祈りを・・・・
マントラを・・・
捧げて過ごす・・・
時間と空間さえ存在しない満ち満ちたこの宇宙の存在・意識・ブラフマンが質と名前を装い、自らを材料に、自らを顕したという、様々な法則に則ったこの私達の住む世界。それは、言葉として顕れ、その言葉は後にサンスクリット語という言葉として、インドのヴェーダ・ヴェーダーンタの聖典として残された。
その言葉は、インドの聖者、王家、の中で脈々と、その意味を取り違えられる事無く、丁寧に保存され、今に至る。中には、哲学者などにより、自身の考えを含むことで、ドンドンと違う解釈になっていったものも沢山、あるにはあるが。だが、しかし、その中核では、一切、人の意見を含まず、忠実に先生から弟子へ、脈々と受け継がれている。
つまりそこには、確立された教えの方法論が根付いていて、伝統的なその教えの方法の中で、間違いなく後世に引き継がれている。
そのテーマは
「Who am Ⅰ? 私とは何か。」という壮大なテーマ。
人間の普遍の真実。
一般にヒンズー教とは、他国の人がそう名前を付けているが、インドでは、こう、呼ばれている。
それは、サナータナダルマ。人間の普遍の真理。
これは・・・・ ヒエラルキーの元に、誰かが説いた信じる話題ではない・・・・そう、宗教とは違う・・・・信じる話題ではない。
自身の歩んできた人生や生活とすり合わせながら、その真偽のほどを確かめていく。ロジカルな教えをロジカルに自分の言葉にしながら、理解に・・・腑に・・・落としていく。
人間の根底にある自己否定が、一体どこからくるものなのか。
私達は本当に「ちっぽけで取るに足りない存在」なのか。
この私個人の限られた考えや身体が、本当に私なのか。
この宇宙の成り立ち。 そこから見えてくる 私達、人間の真実。
「探求」という言葉は・・・ そもそも、この知識を探求する時に使われる言葉であり、価値ある「探求」とは、この知識を知るための言葉だと。。。。聖典は言う。
そこから、浮き上がるのは・・・そもそも・・・
「救われる必要のない 愛、そのものの私」
7月の満月。
ヨーガの根底にある知識体ヴェーダ・ヴェーダーンタを表した聖者ビャーサを讃える日。 そして、グル(無知を追い払う ✨師✨)に祈りと感謝を捧げる日。
個人の私が 実は
そもそも、全体として満ち満ちている私である
その聖典の言葉を・・・ 今は、まだ腑に落とせず、理解できなくとも その間違いのない真実の言葉、「聖典」に出会えた事。 それを根気よく、私達に教えてくださるグルに出会えた事。
感謝の中で祈る
ダルマと共に
愛、そのものの私として振舞いながら・・・
愛を汲み上げる。
雨上がり☔️ 涼しい風が流れ
花々や葉っぱがその風に揺られ…
それと共に
私の心もユラユラと緩んでいく。
1/fのゆらぎ💕
花々の美しさは…半端ない
自然の美しさを、この世界で顕してくれている、その大いなる存在に想いを馳せる瞬間🌸🌸
奇跡の様な美しさを放つ✨✨
幸せな時間✨✨
自然と溶け合う瞬間…なにものにも制限されない、満足した私自身が顕われる。
日常の役割や、To do list から離れ
そこに身を委ねる。
そこに、現れるベーシックパーソンの私。
何かを付け足すまでもなく
そもそも幸せは、内側にあるのだと…💕
沢山のお花と
お野菜を頂いた。
家の中が優しい香りに満ちて
作り手の心がこもったお野菜で
癒されていく。。。
豊かさは、贅沢品にあるのではなく
自分自身がそもそも満たされている人である事を知識に落とし、その満ち足りた私が見渡す風景の中で
その風景そのものが、豊かな輝きを放ち、私自身が、内側から汲み上げる…
それは「愛」という名の豊かさ✨✨
花々に愛を感じるのは
私の中から汲み上った愛
美しい自然の輝きに対して感じる愛は
つまり…私の中の愛が現れた姿
🌿「愛」そのもので、この世界を
顕してくれているその存在にナマハ🙏🌿
#イーシュワラ
#愛を汲み上げる