毎日がシャンティ・自分と繋がる。。。

「今」を生きる___貴方は貴方のままで良い。ヨーガの原点であるインド🇮🇳のヴェーダ、ヴェーダンタの聖典を学ぶ事で見えてくる宇宙観、世界観。そして「私:という概念。そんなこんなを徒然なるままに。。。

あーでなければいけない、こーでなければいけない。これは手放せない。あれを手に入れなきゃ。

 

自己受容のない私は、常に「あれを得て幸せ。これを得て幸せ。あれを失ったら不幸せ。これを、手に入れなきゃ不幸せ。」そう考えて生きてきた。

 

人への批判も渦巻いていた。でも、それは、私自身の中にあるものとの共鳴だと知った。あるから共鳴する。つまり、私を、私自身を見ているのだ。そしてそれは、相手をコントロールしようとするエネルギーに変換される。何故なら、自分には、受け入れられなくて苦しいから、相手を変えるしかないから。

 

でも、知った。私達は、限りない転生の中で、限りない困難を乗り越える為に、生き抜く為に、それら数々を身につけてしまったのだと。もし、あなたが、仮に、許せない彼や彼女の生を生きていたなら、あなたもそうならざるを得なかったのだと。そう、つまり、相手を変える事など不可能だということ。そして、それは、私自身にもあてはまる。自分自身だって変わらない。それは、この宇宙の法則の中で成し遂げられている事。りんごが木から落ちるのと同じ・・・法則なのだ。

 

でも、それこそが、人の苦しみである、それが問題なのだ。変えられない自分、手放せない自分。変わらない相手。執着ゆえに、必死で手にいれようとする毎日。

 

その苦しみの解決の為のたった一つ可能性があるとしたら・・「自分が何者であるか」を知り、それを理解する事。腑に落とす事。識別していく事。そして、知りきる事。

 

そのしくみを知り、私が何者であるかを学び、腑に落としていく中で、「すべき事としたい事」が一致していく。価値構造が整っていく。その中で、今まで執着していたものへの手放しが始まる。大切だったものが、いかに馬鹿げたものであったを知り始める。

 

りかちゃん人形はもう要らない・・・

 

執着とは、つまり過去の自分。自己尊厳など持った事などない自分が、その穴を埋める為に、追い求めて、追い求めて、追い求めて、時にはすべきでない事までして、それらを手に入れようとした。そうするしかなかった過去の自分。

 

人は、皆、その法則の中にいる。

 

だから、そんな自分を否定などする必要ない。そして、誰からも否定される事でもない。法則には、何の問題もないのだから。

 

でも、「自分が何者であるかを知らない。」それが原因で、その人間の根源の苦しみがあるとしたら・・・「知る」事でしか解決しない。もはや、何者にもならなくていいのだ。「知る」だけが解決なのだから。

 

全ての違和感は、「私が私としているもの」と「真実の私」とのギャップだけ。

 

だから、学ぶ、理解する、識別する。

 

この五感と考えという道具では明かせない「この宇宙についての真実、私についての真実」。

 

もう一つの道具を付け足さねば得る事ができないその真実。そのもう一つの道具とは。「聖典と、その聖典を伝統の中で、正しく身に付けてハンドリングできる先生」。

 

その道具に明け渡し、真実を理解しながら、腑に落としながら、知り、そして知りきっていく。

 

それだけが真の意味での私の仕事であり、その為に営めるだけの財力、学べるだけの健康と体力が必要なのだ。その途上にいる事に感謝と祈りを持って、生きていけたら、それが全て。