毎日がシャンティ・自分と繋がる。。。

「今」を生きる___貴方は貴方のままで良い。ヨーガの原点であるインド🇮🇳のヴェーダ、ヴェーダンタの聖典を学ぶ事で見えてくる宇宙観、世界観。そして「私:という概念。そんなこんなを徒然なるままに。。。

彷徨う・・・

f:id:shantiyogalife:20210506112809j:plain

長い間、愛を求めて彷徨っていた

時にそれは、両親に、兄弟姉妹に・・・

パートナーに・・・果ては、子供たちに・・ 求める愛は、いつも彷徨っていた。

 

でも・・・

愛は・・・

そもそも、私の中にあるもので。

 

 

私は、その私の中にある溢れる愛の使い道を、知らなかったのだと気付いた。

 

 

時にそれは、静かに、誰かに、駆け引きの中で使われ・・

また、私自身が駆け引きの中で使った・・・

使われた愛は、まるで、欲しい結果を得られずに

減ってしまったかの様な妄想の中で・・・

 

 

私の愛が奪われてしまったという損得勘定と共に

求める愛を得られない失望感

こんなはずじゃなかった結果

そればかりが、また、愛を求める行為へと形を変えて・・・行いが、行いを生んでいった・・・

 

 

心の中には、愛を求める満たされない願望だけがフツフツと未消化で残り

そのプレッシャーがまた、次の行動・・・そう・・・

駆け引きの中で、愛を求める行いにすり替わっていった。

 

 

私の中にある溢れる愛は・・・・

たとえ、その愛が、今は、枯れているかの様に、感じられても・・・

 

 

自分自身をタップして・・・

井戸を掘り起こし、水を汲み上げる。

一見、枯れている様に見える水も、地下深くをタップして汲み上げる事で

一旦、溢れ出したら止まらない・・・

溢れる愛は、誰かの為に使われるからこそ、また,湧き上がるのだと・・・

愛とは、そういうものなのだと学んだ時から

 

 

 

 

愛を捧げる行いは、全て、自分自身の為、となった。

最初は苦しい事に見えるけど、自分自身の愛が、尽きる事のないものだと、知った時から・・・・

いや、むしろ、汲み上げて、使えば使うほど、湧き上がるのだと学んだ時から

汲み上げて、汲み上げて、汲み上げて・・・・

目の前の人達に、適切な形で、渡していく・・・・

 

思いやりと優しさと丁寧さを添えて

 

 

その中で感じる充足感は・・・喜びは・・・

今まで、私が知っていた喜びとは、異質のものであることを知った。

その喜びとは。。。。今までも時々は垣間見たけれど。。。 一瞬で過ぎ去り、分析さえできない速さで消え去っていく。

 

 そう・・・・その喜びこそが、私自身なのだと知った。 そして、それは、いつもいつの時も、私と共に在る。 求めれば、いつも変わらなく、そこに、在る

 

 

 

 人は・・・無償の愛を施せたときに、ほんの一瞬、わずかのタイミングで

その何物にも代え難い充足感を感じるのだという。

でも・・・それは、あまりに瞬間の出来事で。

次には、もう、駆け引きの中で生きているので、分析さえもできず、でも、

その喜びの深さを、どこか深い場所で知っているので、

その愛を探し求めるのだという。 いつも、そこに在る事に気付かずに、外側に探し求め続ける。

 

 

 

そして、

その喜びこそが、私自身だと学び、理解に落ちた時から。

求める愛から、捧げる愛に姿を変えていく。

「愛されないことを、愛する事で超えていく」

そんな事ができるの。。。、?と自問自答し続けるながら、 自らの愛を汲み上げる中で見つけたのは。。。 そのプロセスで培われる自分自身の強さ。。。だった。

 

 

 

私が、私自身が愛そのものの人である事の理解は

自分自身から汲み上げる愛を、ただただ、目の前の人に渡していく。。

その行為の中で、それが尽きるものではない事を知り、その喜びを体感していくしかないのだと、聖典は言う。

そして、それこそが、人の情緒を成熟させるのだとも。。。

 

宇宙の顕れ・・・

私個人の顕れ・・・

全てが、関係性の中で完璧な秩序を生み出す・・・この生きた宇宙。

「私」とは、何なのか・・・  「Who am I ?」

ヴェーダーンタの一元性の宇宙観の中で

「愛とは、私自身である」という真実を知っていくプロセスで得た初めての安心感。 全ては、ヴェーダーンタ聖典とその聖典を教える先生から学んだ。

 

 

「真実を知る」事は「私自身を知る」事であり「今を生き生きと生きる事」

つまりは。。。私が私自身に寛ぐこと🙏

 

 

ヴェーダーンタ

ヴェーダーンタ勉強会、パラヴィッデャー ケンドラム (para-vidya.com)