毎日がシャンティ・自分と繋がる。。。

「今」を生きる___貴方は貴方のままで良い。ヨーガの原点であるインド🇮🇳のヴェーダ、ヴェーダンタの聖典を学ぶ事で見えてくる宇宙観、世界観。そして「私:という概念。そんなこんなを徒然なるままに。。。

自分自身を知る:कषाय(カシャーヤ)

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全ての人間が持つものであり、その人の中核で、その人を一生コントロールし続ける無意識下の自己否定感・कषाय(カシャーヤ)。このकषाय(カシャーヤ)は、4歳半までの母親との関係性の中で、作られてしまい、決して蓋は明けられることなく、また訂正される事もなく、大人になり、大人になっても尚、更に人を苦しみへとコントロールしてしまうもの。

 

         🌸人間の苦しみの根幹は、この自己尊厳の無さ、つまり、自己否定

それは、他者と関わる中で、時に憎しみ、苦しみ、嫉妬となって感情の中にpop-upしてきて、その人の中核に居座り続ける。

 

 

         🌸人間の赤ちゃんだけが持つ特殊な能力

母親のお腹の中での完全なるsecurityから、切り離されて放り出された人間の赤ちゃん。完全なhelplessな状態の赤ちゃん。その赤ちゃんが持つ特殊な能力。それは、目の前の育ててくれる人に「完全に委ねる」という特殊な能力。全知全能の神であるかの如くに、疑わずに信じるという特殊な能力。

 

🌸最も価値ある価値観。「貢献者としての喜び」を育てる

子供が必要としているものは、母親からの明白な愛情表現。両親が愛情を明らかに表現しながら子供を育てる事で、その子供に培われる最も価値ある価値観。「貢献者としての喜び」それは、神に等しく完全無欠であり、自分を明白に愛してくれる両親を喜ばせたい…そう。「貢献者としての喜び」只々、母親の喜ぶ顔が見たくて、叩いた肩叩きの記憶。その喜びさえ育てる事ができれば、間違いのない人格が育つと言われる価値ある価値観。

 

🌸「僕が、私が、悪いからお母さんは泣いてるんだ」

ある日、子供は、完全無欠の母親が、欠点も併せ持った個人である場面に行き当たってしまう。例えば,夫婦喧嘩で泣き崩れる母親を目の前にする。「僕が、私が、悪いからお母さんは泣いているんだ」無意識の領域に閉じ込めていく痛み。普通に暮らしていて、普通に作ってしまうकषाय(カシャーヤ)。大人である私達も全て、例外なく全員が持っている。

 

また、早くから保育所に送り込まれてしまった子供は、保育所で母親に会いたくなっても会えない寂しさを持つ。その時、彼らが感じる事は。 「自分が悪いから、私は、僕は、母親から見捨てられた。」と。

けれども、保育所から戻り、元気に振舞う自分に目を細めて喜ぶ母親を見て、生き延びる為に、その子供は、更に保育所を楽しんだかの如く振舞う。生き延びる為に。無意識下に,ますます溜まる痛み。こうなると、痛みは深刻の度合いを増していき、大人になって尚、深刻な影響を与えてしまう。

   

   🌸安心・安全を探し求める放浪の旅

そこから始まる、外側に付け足す完全無欠な何かを求める放浪の旅。 お金、パートナー、名誉、地位… これが、人間の歩く道であり、その中で、他者と関わる事る中で、その無意識の領域からの痛みकषायがpop-upして、憎しみ、嫉妬、悲しみとなる。限りない失敗と成功の繰り返し。

 

   🌸私は、何かに足りていない人

「私は、何かに足りてない人」という自分に対する不満足があらゆる行いを生み出す。

自分の手帳のスケジュールが埋まっていないと何か、不安であったり

他人の成功を見たら、理由もなく悲しい気持ちや嫉妬が沸き上がる

常に自分探しをしていないと不安であったり

 

 

インドの教え、聖典ヴェーダンタは教えてくれる。その「完全無欠な全知全能の愛そのものが何であるか」を。そしてそれは、外側にではなく自分の内側にある事を。この探求のプロセスこそが、自分自身を尊び、自分自身を大切に生きていく、その自己尊厳のある生き方への道のりである。

 

母親のお腹の中で完全に守られたsecurity。人間は、そもそもそのsecurityを知っている。だからこそ、安全・安心が何なのかが判らない事への違和感があり、安全・安心を求め続けるのだ。

言い換えれば、その違和感こそが、私達に与えられた恩恵であり、だからこそ、私達は、経験の中で探し続けようとする。でも・・・。それは、外側に行いを付け足す事で、決して越えられるものではなく。全ては、このしくみ、法則の理解である。

 

そして、最後の結論は、只々、無知を落として「知る」ことによってのみ完結する一元性の宇宙観である。 それは… あなたは、救われる必要も責められる必要もない、愛そのものの人であるという結論です。