毎日がシャンティ・自分と繋がる。。。

「今」を生きる___貴方は貴方のままで良い。ヨーガの原点であるインド🇮🇳のヴェーダ、ヴェーダンタの聖典を学ぶ事で見えてくる宇宙観、世界観。そして「私:という概念。そんなこんなを徒然なるままに。。。

今 この時、この場所がベスト

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今、この時、この場所がベスト

それは、何もせずには起こりません。

中道の大切さ。

何を食べるか。

何時に寝るのか。

何時間、寝るのか。

そんな、日常の何気ないおこないから… 果ては、どう生きていくのか…という大問題まで。 先が見通せた精神は、図らずも中道を選んでいる。

沢山の情報や指南書が溢れるこの世界で。

今、何を最優先させて

何を行うのか。。

落ち着いて、瞬間、瞬間、目指す方向性の中でベストなものを、慎重に選択して、行いを選ぶ。

そこでは、他者が自分をどう見るのか、どう判断するのかという様な思惑を挟まずに、選択していく。

駆け引きの中でのBad bargainを選ばす、宇宙の秩序に則していく。

今、この時この場所で。この行いが、宇宙の秩序に違わず、何の迷いもなく最適と思えたなら

それを重ねていけたら… 私は、私に寛いで生きる人。

彷徨う・・・

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長い間、愛を求めて彷徨っていた

時にそれは、両親に、兄弟姉妹に・・・

パートナーに・・・果ては、子供たちに・・ 求める愛は、いつも彷徨っていた。

 

でも・・・

愛は・・・

そもそも、私の中にあるもので。

 

 

私は、その私の中にある溢れる愛の使い道を、知らなかったのだと気付いた。

 

 

時にそれは、静かに、誰かに、駆け引きの中で使われ・・

また、私自身が駆け引きの中で使った・・・

使われた愛は、まるで、欲しい結果を得られずに

減ってしまったかの様な妄想の中で・・・

 

 

私の愛が奪われてしまったという損得勘定と共に

求める愛を得られない失望感

こんなはずじゃなかった結果

そればかりが、また、愛を求める行為へと形を変えて・・・行いが、行いを生んでいった・・・

 

 

心の中には、愛を求める満たされない願望だけがフツフツと未消化で残り

そのプレッシャーがまた、次の行動・・・そう・・・

駆け引きの中で、愛を求める行いにすり替わっていった。

 

 

私の中にある溢れる愛は・・・・

たとえ、その愛が、今は、枯れているかの様に、感じられても・・・

 

 

自分自身をタップして・・・

井戸を掘り起こし、水を汲み上げる。

一見、枯れている様に見える水も、地下深くをタップして汲み上げる事で

一旦、溢れ出したら止まらない・・・

溢れる愛は、誰かの為に使われるからこそ、また,湧き上がるのだと・・・

愛とは、そういうものなのだと学んだ時から

 

 

 

 

愛を捧げる行いは、全て、自分自身の為、となった。

最初は苦しい事に見えるけど、自分自身の愛が、尽きる事のないものだと、知った時から・・・・

いや、むしろ、汲み上げて、使えば使うほど、湧き上がるのだと学んだ時から

汲み上げて、汲み上げて、汲み上げて・・・・

目の前の人達に、適切な形で、渡していく・・・・

 

思いやりと優しさと丁寧さを添えて

 

 

その中で感じる充足感は・・・喜びは・・・

今まで、私が知っていた喜びとは、異質のものであることを知った。

その喜びとは。。。。今までも時々は垣間見たけれど。。。 一瞬で過ぎ去り、分析さえできない速さで消え去っていく。

 

 そう・・・・その喜びこそが、私自身なのだと知った。 そして、それは、いつもいつの時も、私と共に在る。 求めれば、いつも変わらなく、そこに、在る

 

 

 

 人は・・・無償の愛を施せたときに、ほんの一瞬、わずかのタイミングで

その何物にも代え難い充足感を感じるのだという。

でも・・・それは、あまりに瞬間の出来事で。

次には、もう、駆け引きの中で生きているので、分析さえもできず、でも、

その喜びの深さを、どこか深い場所で知っているので、

その愛を探し求めるのだという。 いつも、そこに在る事に気付かずに、外側に探し求め続ける。

 

 

 

そして、

その喜びこそが、私自身だと学び、理解に落ちた時から。

求める愛から、捧げる愛に姿を変えていく。

「愛されないことを、愛する事で超えていく」

そんな事ができるの。。。、?と自問自答し続けるながら、 自らの愛を汲み上げる中で見つけたのは。。。 そのプロセスで培われる自分自身の強さ。。。だった。

 

 

 

私が、私自身が愛そのものの人である事の理解は

自分自身から汲み上げる愛を、ただただ、目の前の人に渡していく。。

その行為の中で、それが尽きるものではない事を知り、その喜びを体感していくしかないのだと、聖典は言う。

そして、それこそが、人の情緒を成熟させるのだとも。。。

 

宇宙の顕れ・・・

私個人の顕れ・・・

全てが、関係性の中で完璧な秩序を生み出す・・・この生きた宇宙。

「私」とは、何なのか・・・  「Who am I ?」

ヴェーダーンタの一元性の宇宙観の中で

「愛とは、私自身である」という真実を知っていくプロセスで得た初めての安心感。 全ては、ヴェーダーンタ聖典とその聖典を教える先生から学んだ。

 

 

「真実を知る」事は「私自身を知る」事であり「今を生き生きと生きる事」

つまりは。。。私が私自身に寛ぐこと🙏

 

 

ヴェーダーンタ

ヴェーダーンタ勉強会、パラヴィッデャー ケンドラム (para-vidya.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

役割を生きる

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一年間に亘る伝統的な呼吸法指導者養成講座を、間もなく終える。

 

 

 

アーサナヨーガを始めた当初から、本当はインドに行って、学びたかったこの伝統的な呼吸法。でも、その頃の私は、娘、母親、嫁、義理の娘という4役を担い、とてもじゃないけど、その役割を放り投げて行ける状態ではなく、そのまま年月だけが通り過ぎた。

 

 

 

夫の両親と同居の中、40代に入って間もなく夫は単身赴任。中高生の多感な時期の息子達を抱え奮闘する中、実家の母が脳溢血で全身不随。父は、どこまでも愛情深く母を介護した。私は。。。誰よりも父親が大好きで、自身が尊敬する最愛の人だった。そんな父親を守る為に、また、まだ70歳代の母を生かす為に、私も全身全霊で母の介護をした。

 

 

 

当時はまだ、車いすで買い物などしていたらジロジロと珍しがられる時代。介護制度も整っておらず、自宅介護は周囲を疲弊させていった。しかも、その時期、私はフルタイムの仕事までしていた。

 

 

 

当時、年代的には、ちょうど更年期。身体の不調、精神の不調は最高潮。鬱症状であることは判っていたが、薬は飲みたくなかった。そんな中、選んだのがたまたまアーサナヨーガ。

 

 

 

 

適度な運動量でストレッチをして、身体と精神がほぐれる後、最後のシャバアーサナ。この時に、いつもとても不思議なリラックスを感じた。役割から解放された自分自身がそこに横たわっているだけなのに、何とも言い難い安らぎを感じ、この瞬間を味わう為に、超多忙の中を、アーサナヨーガと共に駆け抜けた。

 

 

 

 

感覚器官を通して味わう喜び。   

例えば舌の喜び。  美味しいものを頂いた時。

目の喜び。     美しいものを見た時。  

耳の喜び。     美しい音楽を聴いた時。

 

 

 

 

どれもこれも、素晴らしいが、いつも自分より外にあるものを探し求め、何か、付け足さなきゃならない。そして、その喜びは、来ては去る。でも、ヨーガは違った。

 

 

それは、私一人で、完結する喜びだった。

 

 

一畳分のマットの上で、呼吸に集中しながら身体を動かす。そして、最後にそのマットの上で、体を横たえるシャバアーサナ。そこで、味わう至福。時に、閉じた目の中に、紫色や黄色や赤色の光が溢れた。これは、一体何なんだ...ただものじゃない。

 

 

メディアから聞こえてくる情報では、どうやらインドが発祥とか。。。知らなきゃいけない、知りたい・・・そう思った。

 

 

 

そして、自身の身体や精神に起こる前向きな変化だけを頼りに、子育て、介護、仕事に奮闘しながらアーサナヨーガをする中で、何の迷いもなく、ヴェーダヴェーダーンタ聖典と出会っていった。

 

そのヴェーダーンタ聖典には、感覚器官を通して得られる喜びとは、全く逆方向の内なる自分自身へのアプローチで得られる心の平安について、とてもロジカルに緻密に書かれていた。

 

一般的に広まったヨガの背景。それは、インドのヴェーダの文化の中に根付くものであり、ただのエクササイズではなく、生き方そのものであることを学んだ。それは、自身の内側を知っていくことで、いつでも自身の内側にあり、そこにこそ、永遠の平安があるという事。それは、「何が何たるかを知る」それだけで叶う、内側のシャンティ。

 

 

 

ヨーガがただものでないことは、明確に腑に落ちていった。

 

 

そして、そんな中で、伝統的な呼吸法を教えてくれるグルとの出会いがあった。

児玉俊彦先生。

Union Yoga japan:ユニオンヨガジャパン

 

 

そもそも、幼児期からあった過呼吸。当時は、そんな名前もなく、呼吸が苦しいと訴えても「季節の変わり目だからねぇ。」と母に済まされていた。でも、それから、半世紀。いつもではないが、確かにある一定の時期悩まされる。

 

 

 

何気なくしている呼吸が、「苦しい・・」と意識の上にのぼる時、人間は一瞬、死の恐怖を垣間見る。

 

 

 

自身の呼吸を知りたいと常々思っていた。でも、それは、このヨーガを通して伝わるものでないと、意味がないと。。。それは、ヴェーダーンタ聖典を学ぶ中で、見えてきた呼吸の別の側面。

ヴェーダーンタ勉強会、パラヴィッデャー ケンドラム (para-vidya.com)

 

 

 

それは、この生きとし生けるものの中を貫くもの。木々の呼吸が私に与えられ、私の呼吸が木々に与えられていく・・・つまり循環。

 

 

「どうか、私の呼吸が、この宇宙の呼吸という営みを乱しませんように」

 

 

見事な法則で成り立つこの宇宙や地球の美しさ。

全てを与えられたこの個人という存在の私にできる事、自分が役割として担えることを、ずっとずっと探して生きてきた気がする。そう、つまり生き急いできた気がする。

 

 

 

今 やっとおぼろげに見えてきた自分自身の役割。

アーサナヨーガ   呼吸法     聖典の学び

 

 

必要とする方たちに、出会えますように

自身の持っている知識や力が何かの、誰かの為になりますように。

 

 

どこに行かなくても、お金を出さなくても、何かをしなくても

私が私自身に寛ぐ・・・

知りきる道のりは、まだ先であるかもしれないが、確信を持って進む道を見つけた

安堵感。やっと判った、私が生きる意味。

 

呼吸法の教えを授けてくださるグルに

ヴェーダーンタの教えを授けてくださるグルに  心からナマハ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インド雑貨店のおじいちゃんとしたインドよも山話

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買い物途中で、インド雑貨屋のインド人のおじいちゃんとしたインドよも山話                                                                                                       

 

 

インドという国は

何故、西欧諸国からあんなにも遅れをとってしまったのか。

カーストという制度は、ホントに悪なのか。

もし仮にカースト制度が悪なら、何故その国で、アヒムサ(自分と他者を傷つけない)を基盤とするベジタリアンを実行する人達が沢山居るのか。  

 

                                                                                                                                            ベジタリアンは、アヒムサ                     

「自分自身を、「相手を(たとえ、それが蟻であっても)決して、傷つけない」という徹底したポリシーの暗黙の宣言と実行。健康の為に行っているベジタリアンと。インドのベジタリアンは、完全に一線を画している。

 

 

                                                                                                         元々貿易関係の仕事をしていたそのおじいちゃんは、日本在住38年。

ママもまた、生粋のインド人。 彼女は、生まれてからこのかた、朝夕のプージャ(祈りの儀式)をかかさない女性。

そして、現在37歳の息子さん、34歳の娘さんを日本で育てる間は、キッチンで、お肉やお魚も扱ったが、自分は、一切口にしなかったそうな。

今はもう、子供さん達は独立。 おじいちゃんは、身体のためにタンパク質を必要とするけれど。お店に出てるお昼に、ランチのおかずにお魚だけを一人で頂き、 家ではママと一緒にベジタリアンな生活だという。

今朝も、ママは、卵料理(彼女はベジなので、卵も一切口にはしない)とブロッコリーとパンと、温かいチャイを用意してくれたと。 とても嬉しそう!!なんて、愛に溢れてるんだろう。

 

 

 

ママは、腰痛もちで出歩けないが、インド料理がピカイチ!!との事。

インド料理の話で盛り上がり、話は、インド家庭料理教室の話へ。

実は、私は、兼ねてからインドの家庭料理を習いたくて、教室を探していた。 でも、ピンとくる教室はなく、頓挫していたところへ、降ってわいたお話。

飛びつくっきゃない!!!

おじいちゃん曰く、彼女は腰痛でなかなか外出もままならないので、人との出会いも少ない毎日。 お料理教室とかなら、彼女の為にとっても良いのではないかと。。。 なんて優しい奥様思いのおじいちゃんなの・・・。

 

 

まずは、奥様の意思を尊重。「聞いてみるわ~~」と、連絡先を交換した。

 

 

そして、インドのママ達は、とても早起き。

まずは、祭壇に火を灯し、門の前には、お米の粉で、コーラムという絵を描く…

何故なら、そこは、神様の通り道だから。 そして、サリーを纏い、ピアスをして、香を身にまとい、祭壇で祈りをする。 美しいサリーも、身にまとう香も、お化粧ですら、 身体という自分自身の祭壇への捧げ物であり、神に祈る為の身繕いである。

そして、そのお米の粉は、蟻さん達の食べ物となる。

 

そして、これは、毎日繰り返される朝の日課である。 あのサリーを着たままでは、およそ、お昼寝もできなさそうである。 日本人で言うなら、晴れ着とはいかないまでも、ウールの着物を毎日着てる感じの窮屈さだろう。きっと。

 

 

すごいよ。インドの女性は。

 

 

そして。インドの悲惨な歴史の話へ。

17世紀。東インド会社による完全な支配からイギリス植民地へ。

Vedaの文化の中で、神を信じ、アヒムサを実行する人々をいとも簡単に騙し、 その進んだインドの文化ごと根こそぎ潰し、利益だけを吸い上げてしまった西欧の国々。

そこには、実は、インドを中枢で支えていた3500年の歴史を持つカースト制度があった。 しっかりとしたVedaの宗教観に基づき、差別などとは程遠いその文化を中枢で支えていたカースト制度を彼らが悪として、それをその国を潰しても良い大義名分に、 何千年も続いたVedaの宗教観ごと、インドに住む人々を改宗させていったという悲惨な話である。 経済的な損失のみならず、土着の宗教にまで、その手は及んだ。

 

現在のマスコミによる情報操作に似たような現象は、この時代から既にあったのだろう。 大航海時代から東インド会社設立、イギリスの植民地支配という流れの中で 西欧諸国の発展の流れから、完全に遅れを取ってしまった。

 

 

上半身裸で、ドーティ(男性が身に着ける腰巻、しかし、それがインドでは正装である。)を身に纏ったそこらのおじいちゃんに

「神さまはどこに居るの?」 と、聞いたら…

「神でないものが、どこにあるのかね…」

        と、不思議そうな顔で、返事が返ってくる。これが、彼らの日常。

 

そうだよね。その通り。どれ程文明が進んだって、スミレの花一輪、人間は一から作れないもの。

 

Vedaの文化とは、そう言う文化なのである。

 

どれ程、インフラが整っておらず

どれ程、土埃りでまみれていても

シャワーが、途中でお湯から水になっても

 

 

人類の普遍の宝物が、その国インドでは、生き生きと人々の中に根付き、その普遍の知識は、その価値を知る人々によって、 間違いなく脈々と先生から弟子へ、またその弟子へと、伝えられている。

なんてたって、全ての宗教は、この国の聖典の教えが基盤となっているのだから。その素晴らしさ、言わずもがなである。

 

 

でも おじいちゃんは言ってたよ。 日本人は、9割がGood Person。色んなレベルのグラデーションはあるけどね。

 

 

インド人は 両極端。 Good Person か Bad Person どちらか。Bad Personにも色んなレベルがあり、それはグラデーション。

 

でも・・・(ここからが味噌。)Good Personは、ベストな意味でgoodなのだと。 なるほどな。。。と思った。つまり、Best Person.。

 

 

アヒムサの価値を知り、それを実行するとは、そういう事なのだなと。

 

 

それでも。。。ベジタリアンであっても尚、人間は、植物を犠牲にして、それを食して、生きていかねばならない。そう。完全なアヒムサは実行できないのが人間。

しかも、自分が気付かない間に、人を傷つけている事なんて、いっぱいある。

でも、それでも。人や動物やモノを精一杯傷つけずに生きていきたい、というのが

インド、ベジタリアンの根幹なのだ。

 

 

 

これこそが、このインドというの国のDinamicな文化なのだなと。。。

ヨーガな生き方とは  オンライン対話会

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困難な時代を生きる聡明さ。

科学や物理学を駆使して作り上げられたこの人間社会。そこに突然やってきた未知のウィルスが猛威をふるい、老いも若きも、貧富の差もなく、世界中が恐怖に晒されています。これから先、一人一人がどの様に行いを選んでいけばいいのか。それは、多分、自然の一部としての人間の姿に立ち返り、この地球上で唯一、<考え>を使って<行い>を選べる人間が、今一度原点に戻らなければならないのかなと考えます。

 

 

 

 

 

インドには、その「人」が生きる為の台本になる聖典が、この宇宙の顕れと同時に「音」として顕れ、サンスクリット語とうい言葉で聖典として残され、今日まで、先生から弟子へ、そこにそれを学ぶ人の考えや意見を含むことなく、間違いなく引き継がれてきた教えがあります。

 

それは、「人類普遍の知識」としてのヴェーダヴェーダンタの聖典として残され、今も世界中で沢山の人達が学んでいます。

 

 

 

この「今」を生きる為の台本が、何千年も昔の聖典には明確に記されていて、そこに

「人が生きる」為の真実が明らかにされています。

 

その膨大な聖典の言葉の中から、抜粋した重要なエッセンスを、今回スワミ・チェータナーナンダジが、簡潔な言葉で日めくりカレンダーとして完成されました。

 

 それは、スワミダヤーナンダジが話された「インドのスピリチュアルな遺産」という52話のテレビ番組の中から大切な言葉を集めて作成されたもの。

 

 

     Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω…

 

生き生きと関わりの世界を生きる為に必要な知識とは・・・・

 

そもそも、私たちが、「成功や失敗」と定義している事への深い洞察

 

そして、次なる成功の為に、私達が必死で次の行いを付け足し、結果を出そうとする、

その行いの動機の奥底にある「失われた自己尊厳」とは・・・

 その深い洞察を通して明かされる「成功とは、そもそも何なのか。」という

成功の意味の再定義。

 

この世界を編み上げている物理の法則や化学の法則や、心理の法則など様々な法則。でも、実は、見えない世界にある様々な法則の中にこそ、リアリティがあり、それは聖典という道具を加えないと、私たちの五感や考えをどれほど駆使しても判り得ないという真実・・・

 

つまり、自分たちが生きている世界とは、一体何なのか・・・

それをありのままに観る為の学び

バガバッドギータなど、聖典の学びと並行しながら、アンタッカラナシュッディ

聖典の言葉を理解する為の整った考え方)を整え、日々のカルマヨーガに

専念できる自分自身を育てる為の学びの場

    Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω……Ω…

 

その一つ一つ、全部で31の言葉が発するメッセージを、読みながら、話し合いながら、日常にその言葉を取り入れていく・・・・参加された方々と共に作り上げていくクラスです。

 

 

 

2020.2月より  参加費 無料

 毎週土曜日 15時から60分~90分

        zoomオンラインにて

       スワミジカレンダーをもれなくプレゼント🎁

お申込み こちらのフォームより

               

docs.google.com

     

 

 

カレンダーから一部抜粋

 

 ~~~~~~~28日

人間の赤ちゃんは、お母さんに100%の安心を体験する事からはじまります。お母さんに神を体験しているのです。

赤ちゃんは、お母さんに完全にゆだねています。疑う能力すら持っていません。お母さんが神なのです。しかし、お母さんの力には限りがありますから、その子の信頼に応えることができない出来事がいつかは起こります。お母さんが限られた能力の人であったという発見は、子供にとっては、自尊心を失う、人生で最も恥ずかしい体験なのです。ところが、子供はその痛みの記憶に蓋をしてカシャーヤにする特殊な能力を与えられているのです。カシャーヤは、心理学用語でいうなら「無意識」です。これは、4歳半までの時期に起こります。もしその能力が与えられていないなら子供はその痛みに耐えて生きてはゆけないでしょう。こうして人は皆、痛みを「無意識」にして、絶対の安心を探す人生がスタートしているのです。見つかるまで、あなたはお母さんを探し続けます。

 

 

 

~~~~~~~8日

人間のゴールは人生を生きることです。「生きること」ではありません、「人生を生きる事」です。直面している全ての状況を生き生きと生きることです。

なぜ生きていることが満足でないのでしょう?仕事に満足していないから?周りの人に満足していないから?いいえ、本当のことを言うと、私は私に満足していないのです。人は自分自身が満足であることを発見しなければなりません。それが「探求」の意味なのです。そのために、成功の意味が正しく見直される必要があります。成功とは、満たされた願望の量や大きさではありません。現実をうまく扱うことができる私の能力です。願望は恩恵であって、喜びがあるものです。あなたの失望の元になるべきではありません。願望を持って努力した後に起こる4つのタイプの結果、つまり、期待した通りの結果、期待以上の結果、期待した以下の結果、そしてまったく予期せぬ正反対の結果ですらプラサーダだとわかる私には、全ての状況をうまく扱うことのできる能力があります。最初の2つを上手に扱えるなら後の2つは問題ではありません。この能力を持てることこそが満足の意味で、それが成功の意味なのです。

 

🌸ご紹介

Pujya Swami Dayananda Sarasvati プージャ スワミ ダヤーナンダ サラッスワティ

 

 1930年、インドのタミルナードゥ州の小 さな村、マンジャクッディに生まれ、1962 年に、スワミ チンマヤーナンダジからサ ンニャーサを受けてスワミ ダヤーナンダ サラスワティの名前を得られました。その後、伝統的なヴェー ダーンタの講師の中でも際立った存在として、世界中の生徒た ちに、ヴェーダーンタの明かす一元論の宇宙観を教えてこられ ました。 インドでは、リシケシのArsha Vidya Pithamやコインバトー ルのArsha Vidya GurukulamやナグプールのArsha Vijnana Gurukulamで、またアメリカではペンシルバニアのArsha Vidya Gurukulamで幾度も3年半のコースで教えを説かれ、 2009年と2010年には、日本でもタットヴァボーダとバガ ヴァッドギーター2章を教えてくださいました。 今では、スワミジから知識を受け継いだ多くの生徒たちが先生 として育ち、世界中で教えています。 2015年9月23日、インドのリシケシにて、肉体を離れて、マハー サマーディに入られました。

 

🌸Swami Cetanananda Srasvati スワミ チェータナーナンダ サラッスワティ

 

1999年10月、インドへ留学し、リシケシ にてヨーガを学ぶ。 2000年6月、リシケシにてヨーガを学ぶ。 2000年6月、リシケシにて、恩師、スワ ミ ダヤーナンダ サラスワティと出会い、 ヴェーダーンタと、インドの伝統的な生活様式を学びはじめ、 インドのコインバトール、Arsha Vidha Gurukulam (ヴェー ダーンタの学校)にて開催された3年と3ヶ月の長期のコー スにて、スワミ ダヤーナンダジから、ヴェーダーンタ(ウパニ シャド)、サンスクリット語、そのチャンティングを学ぶ。 2007年1月、パラヴィッデャー ケンドラム ヴェーダーンタ勉 強会を発足し日本で教え始める。 2009年4月、スワミ ダヤーナンダジを招いて、東京ヴェーダー ンタキャンプを開催。 2010年4月、広島&東京ヴェーダーンタキャンプを開催し、再 びスワミ ダヤーナンダジを迎える。 2013年3月、スワミ ダヤーナンダジより、サンニャーサーを受 ける。

 

 

~~スワミ・チェータナーナンダサラッスワティからのメッセージ

ヴェーダの文化を生きる人々にとっては、この宇宙こそ が生きていて、それはイーシュワラと呼ばれます。星が周期し、季節が変わり、雨が降り、一粒の種から花が咲き、そ の生きた宇宙の秩序は、ダルマと呼ばれます。学校の先生 の仕事は、ダルマを教えることです。子供たちは小さなころから、目に見える世界だけではなく、目に見える世界を支えている秩序、ダルマを習います。勉強や仕事、結婚生 活だって、ダルマをたどってイーシュワラを理解しようとする生き方、ヨーガとなるのです。 勉強も働くこともダルマの意味とつながらないままに 「どう生きたいのか」と、問い詰められることは、子供にとって、それはそれは恐ろしいことです。だから、安全のための進路になるし、休日を待ち望んで働く人

生になるし、月曜日の朝にはため息がでるし、でも、辞めてどうなるのかと思うし。大人になればなるほど、「ちっぽけで取るに足らない私」、かけひきばかりの私。私は、尊厳の目で 自分を見ることなどできるのでしょうか? そんな子供が大人になって何かむなしく思うとき、もし、そんな自分からの自由を求める旅が始まるなら、ヴェーダはそれを祝福し、ヨーガという生き方を教え始めます。 ヴェーダの最後の部分、ヴェーダーンタの知識は、ヨーガ を生きるヨーギーたちのきれいな考えだけに宿ることが できると伝えられています。時間と空間ですら閉じ込めることができない私、それこそが本当の私の姿であると知り、ヨーギーたちは、限りのない自由と満足を得ると言 われます。 この「スワミジ カレンダー」は、スワミ ダヤーナンダジ が52回のテレビ番組でお話された内容から、日本の生徒 たちが感銘を受けた言葉を選んで、日めくりカレンダーとしたものです。一日のはじめや終わりに、ご利用ください。繰り返し、繰り返し深まる言葉たちが選ばれていま す。日に日に、私たちの無知と妄想を追い払い、「今日も、 私はOK!」と言える自分自身の発見に向けて、私たちを 導いてゆくことでしょう。

 

パラヴィッデャー ケンドラム http://www.para-vidya.com

2021年 祈りと瞑想

2019年後半から、すごいスピードで身辺が展開し始めました。

 

 

 

 

 

 

ここから、少し遡っていく。

 

2019年、12月に、夫の出張についてインドの聖地中の聖地、バラナシへ。ガンガーの川べりで行われた圧巻の祈り儀式。混沌とした人間社会をそのまま表現したら、こうなるのか…。。と思える風景。砂埃と色んな悪臭と沢山の人々。カオスの中の真実。そこにあるこの世のものとは思えない祈りの儀式。インドという国が、この世界の中で果たす役割を見せつけられた。

 

 

 

 

 

 

更に、それに先立って、その年2月に、聖者ラマナ、マハリシに導かれ。

 

街全体が、ラマナマハリシに抱かれた様に愛に包まれた場所。世界中の人々が、その愛を求めてやってくる街。ドキドキしながら、一人でアシュラムと宿を往復した三日間。なんせ、これは、初めてのインド一人旅。

 

その後、私の先生のそのまた先生である、スワミダーヤナンダジの生まれ故郷の街で、2週間のヴェーダンタキャンプ。 そこで学んだのが、ラマナ・マハリシのウパデーシャサーラム。 「えーっ!?ラマナアシュラムで、プージャ の時にされていたチャンティングを、ここで学ぶ…。。あ・ありえない⁉️」そう、実は、そのキャンプは、ウパデーシャ・サーラムを学ぶ為の、2週間の南インドキャンプだったのだ。

 

只々、スワミ・チェータナーナンダジの講義をインドという場所で、聞きたくて、参加した私。

 

ただの偶然とは思えない状況。その美しさは半端なく、心を突き動かされた。その一語一句のサンスクリット語を、スワミ チェータナーナンダジが丁寧に解説されるのを、自身の理解に落とし込んでいく。

 

そして、その街で展開される人々の祈り深い姿。 「神はどこにいるの?」と聞くと 「神でないものが、どこにあるの?」と逆に、聞き返されるという、その言葉を真の意味を思い知らされた。 たしかに、神でないものなど何一つない。。。。

 

 

 

 

 

 

そのまた、前の年、2018年、9月

前年2018年、9月、何百年に一回の大洪水に見舞われた南インド。空港閉鎖の中を強行突破。2週間の滞在で、伝統的なアーサナヨーガとその理論を学んだ。その帰路、大型台風で大阪の湾岸線にタンカーが衝突して、橋桁が壊れた関西国際空港シンガポール乗り継ぎ、24時間、空港のロビーで寝袋で眠り、やっとこさ、名古屋空港へ。そこから新幹線で日本に帰国。水難の中を駆け抜けたインドへの旅。

 

 

 

 

そう、2018年から2019年にかけて、渡印すること3回。

念願叶っての聖地巡り。念願叶っての、ヨーガの学び。 呼ばれなきゃ行けないというインドに、連続して行けたこと、そして、そこで、学べた事。これは、大きな転機となった。

 

 

 

そして、2019年の年末。

呼吸法講座でのトシ先生との出会い。前に座らせて頂いた途端に、背筋が伸び、その日のパソコン仕事の疲れが抜けていく不思議な体験をした。トシ先生は、ヒーラーか⁉️ しかも。別のトシ先生だと勘違いして、申し込んだ呼吸法講座だった。あれ?私が思っていたトシ先生とは、名前は、一緒だが違う人。あれあれ?でも、座った途端、身体が癒されて、そんな事は吹っ飛んだ。ただものじゃない。この人は。 私の直感が働いた!!!

 

 

そもそも、ヨーガのインストラクターとして、ヨーガスートラに基づいた伝統的な呼吸法、いつか、きっちり学びたいと思っていた。

 

 

 

もちろん呼吸法の座学は、興味深く、来年、2020年はこの先生について行こうと決めた。既に、計画されていた、年間通した呼吸法指導者講座とズームオンラインによるアーサナヨーガ。

 

 

 

 

まだまだ世の中は、コロナもなく、「ヘェ〜オンラインでアーサナヨーガ⁉️」不思議な感じがしたけど、トシ先生の魅力に惹かれ、どうしても、学びたくなった。

 

 

 

 

年を越し、2020年。コロナ禍に突入。

 

 

 

私のもう一つの仕事。それは、自転車で5分の場所のコールセンター。その仕事場が、大阪なんばの会社に移管された。コロナもあり、とりあえず暫く、お休みしながら…

 

 

 

 

焚き付けられる様にスタートしたヴェーダンタの学び。

全てのクラス、オンラインで、先生方が提供して下さる中、一日中、学びに没頭。

今までも、ヴェーダンタは勉強していたが、勢いはドンドン加速され、一日中学び続けた。そして、あっという間に2020年の年の暮れに。。。

 

 

 

 

 

平行しながら、前年末に決めていたサンスクリット語の勉強もスタート。

これも、予習、復習半端ない。でないと、クラスについていけないのだ。必死だった。ドロップアウトしない為に。何故なら、サンスクリット語の読み書きができ、文法を知っていれば、聖典を学ぶ上で大きなメリットがあるから。聖典は全て、サンスクリット語で表記されていて、それを先生が解説してくださるのだが、読むだけで、ある程度、イメージができるようになるのだ。

 

 

 

 

 

 

そうして…。。家事以外は、全て、オンラインでの勉強。そして、予習、復習。つまり、もう、テレビを見る時間もなく、コロナのニュースは、Facebookを通じて知る事以外、ニュースを見る間も無く過ぎて行った。

 

 

 

 

 

学びは進み、生きていく上での指針を確立できたと思う。

 

 

 

 

 

でも、そんな中。秋口からは、自身の体調に異変が起こり始め。

まず、目の検査で分かった異常。結果的には、暫くの間、様子を見ましょう!的な……点眼薬も薬も何もなし。

 

 

 

 

次に、膠原病、シェングレーン症候群。

でも、これも、投薬もなく、半年毎の検査のみ。

 

 

 

 

並行して、二男の婚約。 今年のお正月は、婚約者と共に帰省。家族が増えた!! 我が家は男所帯。(とは、言わないか…。)

とにかく、女子は私一人。若い美しい女の子の存在で、私は、終始、上機嫌。

 

 

 

私にとっての2020年。 それは…。コロナのパンデミックで、生活が激変したというよりも…。そもそも、2019年末に決めた2020年の目標通りに、劇的な前進があったと思っている。

 

 

 

そして。。。。2021年は…。。

 

 

 

 

 

今年は祈りと瞑想。

ジャパ瞑想、ウパーサナ瞑想、ニリッディヤーサナ瞑想。

 

 

 

 

学びを前に進めよう、進めようとするのではなく。

日々のクラスにコミットしながら、後は、祈りの時間を深めていく。学んだ事を、瞑想で深めていく。

 

 

 

 

瞑想とは祈り。

私が、何者なのか。

ヴェーダンタで学び、理解し得た事を、考えの中に落とし込んでいく。本来、瞑想とは熟考である。そして、自分とは、何者なのかを熟考するとは、つまり祈り。

 

 

 

         2021年は

         瞑想と祈り🙏         ここにコミットしていこう f:id:shantiyogalife:20210103135816j:plain

ギータジャヤンテイ

12月25日は、世の中ではクリスマス🎄。クリスチャンでない私も、いつもは、ケーキを頂きます。

でも…今年は違いました。毎年、月暦の関係でその日は色々なのですが、今年はXmasの日に重なりました。

そう。ヨーガとは、何なのか。生き方、そのものであるその教えを示してくれている聖典、バガバッドギータの誕生をお祝いする日。

      🌸ギータジャヤヤンテイ🌸

🎂それはそれは、神聖な祈りの儀式🎂

ヨーガは生き方そのもの。そのヨーガの生き方を実践していこうとする私達にとって、今日は特別な日なのです。

全部で18章のバガバッドギータ、現在、スワミジの元で7章まで学んでいます。その章の中の一節を唱える毎に、お花を本の上に供えていきます。バガバッドギータの本が、お花で埋め尽くされていきます。延々と4時間近くかけて、感謝の気持ちをお捧げします。

この宇宙の顕れと共に音として顕れたヴェーダ聖典の言葉。最後に記されているヴェーダンタの教え。その言葉は、その宇宙の始まりから脈々と現在まで、伝統に沿って間違いなく学ばれた先生から生徒に、ひとの考えを交える事なく、純粋に受け継がれてきました。

その神聖な儀式を、生徒の私達がサンスクリット語で唱え続けて、この学びの中に生きてゆけるその偉大なる価値を讃えます。

私は、第5章を担当させて頂きましたが…準備不足で不出来であった事、ちょっぴり後悔💦⤵️

この大変なコロナ禍で、検討に検討を重ねて、そこに参加させて頂きました。

一見、特殊に見えるこういった教えの世界。しかし、この不安なコロナ禍で、この教えの普遍性を、改めて再認識する事ができました。そして、間違いなく心の支えとなりました。

一年の締めくくりとして、その場に座らせて頂いた事に 只 只 感謝です🙏f:id:shantiyogalife:20201228192248j:plain